社交的と無関心
会社の年の近い社員の女の子がかなりしんどい状況でイライラマックス、社員みんなの愚痴を言いまくって
「すいません!愚痴ばっかりで…わたしの愚痴のせいで○○さんが影響受けてみんなのこと嫌になったらどうしよう!?笑」
みたいなことを言われたけど、わたしは別に嫌じゃないしなんならおもしろ半分に聞いてるけど、そもそもへぇーっと思うだけで特になんとも思わないし普通に喋れるよっていう話をしたら
「さすが末っ子!世渡り上手!」
って言われた。
「よっ!八方美人」
に聞こえた。
この歳で人の愚痴聞いてその人のこと嫌いになる人なんておるんかな?
自分に無害ならそもそもなんだっていいわ〜ƪ(˘⌣˘)ʃ
という1日。
たましいの救済
わたしは、自ら選んで死んでしまった人を多くの人みたいに「いろいろあったのかな、可哀想だな」と思う気持ちはあるけれど、もっと強く思うことは「よかったなぁ」。それだけに尽きる。
死は逃げ場ではないというセリフを聞いたことがあるけれど、そう、死は逃げ場ではなくて、一つの選択肢だと思う。
例えば、ずっと欲しかった車を買うように、ずっと行きたかったパリに行くように、ずっと死にたかったという願いが叶うのだから。
例えば本当に辛くて悲しくて、やり切れずに自ら亡くなったのだとしても、人々がそこへ向かうのは、果てしない救いがあるからだと思う。
この世にはない、永遠の解放が。
死ぬことでしか取り戻せないなにかを、きっと彼らはやっと手にできるから。(そうであってほしいと願っているからかもしれないけど)
だから、みんな旅立ってしまう。
なんでこんなに早く…もっと元気な姿をみせて欲しかった…
というのは他人のエゴでしかなく、それが相手を苦しめるのだから。
わたしたちも、もう無意識に彼らを苦しめずに済むのだから。
よかったねって、がんばったねって、送り出してあげたい。
それもわたしのエゴだと、分かっているけど。
友達が死んだのは7年前。
彼女もずっと望んでいた、選んだ場所に行けたのだと
ああ、なにもしてあげられなかったな。
でも、行きたいところに行けてよかった、本当によかった。そうに違いない。
そうやって自分に言い聞かせたことを思い出した。
知らない人の死を、1ミリでも推し量ることはできないけれど、願うことはたったこれだけで、わたしを取り巻くすべての人が、今日のほんのすこしの時間でもホッとした気持ちになれていますように。
遠いムービー
最近、全然映画を観ない。観られない。
よくわからないけど、(多分きっかけはハタチくらいのときにあるのだけど。)人の感情を見るのがしんどくなったりすることがあって、(映画ってその最たるものやと思う)なんだか足が遠のいたり、手が出せなくて観れなくなってしまった。
嫌いじゃないし昔はたくさん観ていたのに、なんだかどんどん遠くなって行く。
いまではごくごくライトなノリのものしか観られなくなってしまった。
本を読んだりはできるので、時間の感覚とかも関係あるのかもしれない。
よくわからないことは置いておこう。
そういう主義なのでいつまでも解決しないまま、どこかにぽろっと置き去りになっている。
いつかまたとっても自然に映画が観れる日がくればいいなと思う。
往く年来る年
たまに年齢確認をされることがあって、20超えた頃はイライラしながら身分証を出していたのに、24超えたあたりから急激に嬉しくなってきた。
非常に悲しい事態である。
思えば数年前から気持ちの年齢は止まり、周りの大人たちの「まだ若い」という言葉に踊らされても肉体はどんどんと年老いて、気づいたらいい年になっていた。
わたしがひとつ歳をとった瞬間、一番しっくりきた年齢は17歳。
17歳への無限の憧れ。
子供でも大人でもない、これからなんにでもなれるその年齢にときめきながらも「17歳です!」と胸を張っていえた。
いまは恐る恐る「今年で27の歳です」(この言い回しなんなんやろ)と答えてはちょっとした自己嫌悪に陥る。
でも少し考えると、これからなんにでもなれることに変わりはない。
もう若さという武器はないけれど、いままでの経験と適応力、あの時にはまるでなかったコミュニケーション能力には、17歳のときよりも断然自信がある。
27歳になったとき、胸を張って「27歳です!」と言えるいい大人になれるように、あと数ヶ月努力してみようと思う。
留守番電話と世界
今日は、静岡県のなんとか南中学校という全く関係のない番号から間違い電話がかかってきた。
留守電には女性の声でポルトガル語っぽいメッセージが残っており、全く意味はわからないものの2分ほどメッセージが続いて最後は「オブリガーダ」と締められていた。
もしこれが大事な要件だったら(そうじゃなくても)、彼女が留守電まで残した伝えたい相手に、伝えたいことが伝わらない大惨事を招いてしまうかもしれないと思い、着信のあった中学校に掛け直して経緯と共に番号が間違っている旨を説明すると、電話に出た男性教員(だと思う)から懇切丁寧に謝られ、今日は外国人研修生が来ているのでおそらく彼女が間違って掛けてしまったのだろうと言われた。
普段からそのまま、本当にそのままの生活をしていると、自分の周りのごく一部の人間(主に、自分が幸せになってほしいと思っている人口)しか暮らしていないんじゃないかと思い込んでしまう。
ニュースやテレビやネットを見ても、簡単に言うとバーチャルの世界のように、そこにはない、うわさ話で井戸端会議で又聞きの他人事に思ってしまう。
でも実際はこの小さな日本にも1億3000万人もの人がいて、それぞれがそれぞれの人生をそれぞれの場所で送っていることを少し思い出し、そしてこの世界には、もっともっと数えきれないたくさんの人々がいることを漠然と考えた。
みんなは幸せだろうか。ちゃんと食べてるだろうか。一日一回笑えているか。最近いいことはあっただろうか。
まるで遠くで暮らす名前を知っているくらいの同級生を思うように、結局はその程度のことしか考えられないが、確かにそこに暮らす人たちに、伝えたい誰かに、伝えたい何かが、確かに伝わることを、ほんの少し祈ってみたりした。オブリガーダ。